つれづれなるままに

雑記やレビュー、感想等

ベース購入後。

先週の土日はひたすら先週購入した7弦ギターとベースを弾いていた。

特にベースはほぼ初心者なので新鮮な気持ちで弾けてとても楽しい。

今は人間椅子とディルのスコアをコピーしている。

ベースは指引きがいい、とよく言われるがピック弾きもそれでしか出ない音感があり、一長一短と思う。一応どちらも練習中。

好きなベーシストはほぼピック弾き。指弾きはジャストでなくとも何となく合っている感じがするものの、ローが強調され気味なイメージがあり、音作りを含め想像以上に難しいと感じる。

ローを効かせ過ぎたベースサウンドがアンサンブルを壊している例もよく見受けるので気を付けたい。

どちらにせよ指が痛いけど色々音を考えて弾くのがギターを弾き始めた時と同じで、懐かしくもあり、またそれが楽しくもあり。

 

ベース特有の奏法を勉強するには教本が一番よいと思うので、近い内に購入して弾き倒したいところだ。

スラップにはそれほど魅力を感じないところだが、最低限練習はしたい。

 

電子辞書と石原莞爾。

そういえば最近も学習に使うのだろうか。

スマホもあるし、昔より断然重要性が薄そうだが。

 

自分は電子辞書が大好きだ。

レスポンスの速さと適度な情報量、辞書同士での内容比較も出来るからだ。

ネットで調べると、不要な情報も沢山入ってくるので以外と効率が悪かったりする。

あとは情報から情報へすぐに飛べる機能も良かった。

情報と情報が繋がっている事が理解への第一歩だからだ。

特に大学の世界史関連の講義では世界史知識不足を補うのに大変参考になった。

慣れると講義のスピードについていきながら調べていける。

大学在学中に紛失して以来持っていないが、買ってみるのも良いかもしれない。

 

また、昔使っていた電子辞書には青空文庫に入っているような古い書籍が入っていたので、あまり聞く価値のない授業中などはよくその書籍を読んでいた。

お気に入りだったのは石原莞爾の「世界最終戦論」だ。これも青空文庫で読める。それほど長い文章ではないが、興味深い。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000230/files/1154_23278.html

 

石原は熱心な法華経信徒であったので、ややオカルト的な部分も目立つが、戦争形態の変化と今後の予測については興味深い指摘が多い。

私は基本的にはあらゆる時代を通して軍人や戦争に詳しくないのだが、石原莞爾に興味を持った事でアジア主義人関連は授業とは別にして勉強した。

つくづく、大学で日本近現代史でのまともなゼミがいなかった事が悔やまれる。

また、倉富勇三郎日記関連でレポートでも書きたかったところである。

 

大学で勉強した事の多くを忘れているが、心の奥底には純然たる興味が残っている。

まずは電子辞書を持って図書館に行くことから、知識への探求は始まるのかもしれない。

誘惑が多く、なかなかそれを実行する意思が弱いのだけれども。

8月1日、四季と季節の終わり。

今日から8月だ。

夏至から一ヶ月以上が過ぎ、日が長い時期も終わりを迎えていく。

これからが夏真っ盛りなのだろうが、既に次の季節を感じてしまうのは悪い癖だろうか。

花粉症により風情もへったくれもない春を除けば、季節の変わり目は何度も美しく、尊い

 

特に夏の終わり、秋の終わり、冬の終わり。

春に生まれ、冬に死ぬイメージで捉えれば、夏は生命の絶頂期といえる。

夏の終わりは物悲しさ、それは祭りの終わりにも似ていて、輝きが少しずつ失われていく、そんな感覚を持つ。

そういった輝いた故の儚さはいつでも心を掴んで止まない。

比べると、秋の終わりはそういった物悲しさも一通り過ぎ去り、ある種清静とした時間が流れている。

秋は恵みであり、冬に向けた準備の時間でもある。秋の終わりはその準備が終わりでもある。

虫の音が増え、そして消えていく。そこにも情景があり、輝きが失われ、枯れゆく姿もまた美しい。

冬の終わりは雪が溶け、新たなる芽生えを感じられる。それはとても尊い事だ。

冬は死の時期である。冷たく、厳しい情景は微かに点る生命まで消し去ってしまうほどに。

けれども凍えるように厳しく移ろう自然の情景は、それであるからこそ一層生命を照らす。

冬の終わりは照らされた生命が最も小さく輝く時期だろう。

 

季節をどう捉えるか、その感覚というものはタロットカードの解釈のように表裏一体だ。

どう感じ、どう解釈するか、それも四季に対する一つの楽しみ方だと思う。

 

 

 

ゼルダの伝説と思い出と幼馴染と。

ゼルダの伝説シリーズは割と好きではあるものの、任天堂ハードをあまり持っていなかったからか、全クリしたのは時のオカリナムジュラの仮面神々のトライフォース、夢を見る島DX、BOTWくらいだろうか。

 

どれも嫌いな作品はない。少なくとも自分がプレイした作品を見る限りはゼルダブランドは確かだ。

個人的にはムジュラの仮面が一番好きだった。

あのゲームは3日間を繰り返す、いわばループものである。

世界を救う為にリンクは3日間を繰り返す。

その一ループ、一ループでリンクは人助けをしていく。無念を晴らす為、恋人との約束を果たす為、家族との約束を果たす為、3日後の滅びを前に、あの世界の住民は人それぞれの苦悩を抱えて、リンクはそれを救っていく。

彼らを救った後またリンクはループを繰り返していく、彼らとの絆の証である仮面だけを残して。

リンクのおかげで彼らは救われて、でも世界は

滅び、またリンクだけが3日前に戻されていく。

3日間をループするシステムからこその住民の生命感の濃密さ、人間臭さ、そして切なさ。

これだけではかなり尽くせないものよ、私がムジュラの仮面に魅了された大きな理由の一つだ。

もし、似たようなゲームがあれば是非やりたい。

 

あと夢を見る島も切なくて、非常に印象に残っている。

後にリメイクとしてDXが出て、最近switch版としてもリメイクされた。

かぜのさかな、今でも忘れないメロディーだ。

マリンは自由に空を飛べただろうか?

小学生の時に貸してくれた大村くん、本当にありがとう。

 

そういえば、トライワイトプリンセスは幼馴染の家で途中まで一緒にプレイをした。

寝ずにプレイするという話だったのに、途中で私が寝てしまって申し訳ない事をした。

最後に会ったのは成人式。元気かなぁ、あいつ。最後に連絡取ったのはいつだったろうか?

任天堂バカのイメージしか未だ俺にはないけれど、あいつはあいつできっと色々成長しているのだろう。

思うたびに成長のない自分に嫌気が差す。

気持ち悪い事だが、自分も恥じないように、そう思うと少しは頑張れる気がする。

 

私にとってゼルダの伝説はそういった思い出補正もコミコミで、非常に面白いゲームだ。

 

ジェネレーションギャップ。

入社から多少年数を重ねた所で、新入社員の年代とは既にジェネレーションギャップがあるんだよなぁ、という事を自覚する。

元々テレビ、雑誌を殆ど見ないこともあり、世相に疎いからより酷い。仕事以外の話でついていける気がしない。

それ故に共通の話題としてのゴルフが蔓延る理由も分かろうというものだ。

ギャップを埋めようとするオジサンの涙ぐましい努力の一つなのかも知れない。

 

自分がオジサンになっているというのは怖い事だが、オジサンだと気付かないのはもっと怖い事だろう。

せめて分別のつくオジサンであろう、そう心に刻む今日この頃である。

 

シニフィエとシニフィアン。

上記はソシュールが定義した用語だ。

私は言語学を殊更勉強した訳ではない為、理解に不足があるだろうが、ある言葉の中身がシニフィエ(signifié)、ある言葉の具体的な文字、音がシニフィアン(signifiant)と定義されている。

例を出すと、太陽をイメージした時に、思い浮かべる太陽のイメージ、概念がシニフィエであり、に「太陽」や「SUN」などの実際の文字、音がシニフィアンだ。

 

シニフィエシニフィアンがなければ共有化され得ない。同時にシニフィアンシニフィエがなければ容れ物があるばかりで機能しない。

例えば「第36号式法論」というそこには何にも意味はない言葉を生み出したとすると、シニフィアンはあるがシニフィエは存在しない状態となる。

同時に、何か想起されるイメージや感情を適切な用語で言い表せないとすると、それはシニフィエはあるがシニフィアンが存在しない状態となる。

まぁこの辺りはラカンを勉強している人や広く構造主義を勉強している人にとっては釈迦に説法ではあるとは思う。

 

思想系の本は手に取りづらいが、少しずつでも勉強していければと思う。

 

 

ある休日の過ごし方。

今日は休みだ。仕事柄最近は平日休みが時々現れる。

朝起きてラジオ体操後、シャワー。その後掃除をする。ギターの梱包材を捨てる、風呂掃除がメイン。仕事電話が鳴りまくりなので対応を終えたのち、イオンモールへ。

平日朝のイオンモールは人が少なくてよい。オムライス屋でブランチ後、モール内の楽器屋で買物。

ベースケースとクロス、7弦用エリクサー弦、ピック数枚を購入。出来ればストラップやベース弦も欲しかったが予算オーバーの為断念。

 

帰宅後はスーパーで買物後にビーフシチューの仕込み、調理。

マイコン圧力鍋を購入したのもあって挑戦してみた。

セロリのみじん切りを2回もひっくり返してしまったのは我ながら酷かった。広いキッチンが欲しいところ。

ただ包丁をいいやつに替えてから非常に切りやすく料理意欲が向上中。

夕食はビーフシチューともち麦

 

隙間時間はひたすらベースと7弦ギターを弾いていた。

7弦ギターは思ったより弾きやすいが、7弦分のスケールを把握するのと、今何弦を弾いていて、次にどこに移ればいいのかの感覚を掴むのが課題だ。

ベースは弾いててひたすら楽しい。

だけどネックがやや純反り気味なのが気にかかる。調整が面倒でそのまま弾いているが、どっかで調整しないといけないだろう。

少なくとも録音に耐えうるレベルまでは練習と調整をせねば。

 

そして今ブログを執筆中だ。どうせだから記事をストックしとくか思案中。

文章の練習も兼ねているので、1ヶ月間は1日一回投稿としたいところ。

 

明日からはまた仕事が始まる。

月最終週なので何かと忙しいが、ある種適度に忙しいのがよい。

正直こちらに赴任してからは、そこまで忙しくはないのだが、流石に名古屋勤務時に戻るのは御免だ。

何事も中庸が一番、とはこの事だろう。

そうやってハイデガーの言うところの「存在忘却」をしながらも、今日も明日も生きていくだけだ。