つれづれなるままに

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シニフィエとシニフィアン。

上記はソシュールが定義した用語だ。

私は言語学を殊更勉強した訳ではない為、理解に不足があるだろうが、ある言葉の中身がシニフィエ(signifié)、ある言葉の具体的な文字、音がシニフィアン(signifiant)と定義されている。

例を出すと、太陽をイメージした時に、思い浮かべる太陽のイメージ、概念がシニフィエであり、に「太陽」や「SUN」などの実際の文字、音がシニフィアンだ。

 

シニフィエシニフィアンがなければ共有化され得ない。同時にシニフィアンシニフィエがなければ容れ物があるばかりで機能しない。

例えば「第36号式法論」というそこには何にも意味はない言葉を生み出したとすると、シニフィアンはあるがシニフィエは存在しない状態となる。

同時に、何か想起されるイメージや感情を適切な用語で言い表せないとすると、それはシニフィエはあるがシニフィアンが存在しない状態となる。

まぁこの辺りはラカンを勉強している人や広く構造主義を勉強している人にとっては釈迦に説法ではあるとは思う。

 

思想系の本は手に取りづらいが、少しずつでも勉強していければと思う。