つれづれなるままに

雑記やレビュー、感想等

続ベース。

ひとまずディルのCageのベースソロはコピー完了。初心者の練習には良いかも知れん。

現在はバクホンのサニーをコピー中。「僕ら有刺鉄線を超え」のとこオクターブ弾いとるだけなんだろうけどなんか違和感あり。

バクホンはベースが動くから弾いてて楽しい。

人間椅子の芋虫もストレッチフレーズの練習になるね。こちらはギターも練習中。ソロは難しくてまずはそれ以外。

 

ツーフィンガーにもチャレンジしてるがどうにも下手。音粒が揃わないという初心者にありがちな傾向。練習ってどうやりゃいいんだろ。

明日、明後日仕事すればまた練習の日々。

早く下手なりに録音したいものだ。

 

 

死後の世界と魂の総量。

まず前提として自分は死後の世界など信じていないし、死の向こう側は完全なる無であると考えている。

死後の世界の存在はある種心の転ばぬ先の杖的な発想で生まれおり、人間の根源的恐怖に呼応した思考でしかない。

とはいえ、そういった非科学的な事について考える事は好きだし、疑問に思っている事もある。

その一つが「魂の存在」だ。

 

ひとまず「魂」という存在があると仮定した時に、それは有限?それとも無限?どちらなのだろう。

どの生物にも同量の魂が宿るものなのだろうか?もしくは量ではなく、強弱?

 

種々の宗教では魂、またはそれに類するものの存在があり、死後の世界、または輪廻があるとされている事が多い。

よくその際は集合意識(FF7でいうところのライフストリーム)的な説明がされる事が多いがどうにも納得出来ない。還る量が増えれば溢れるだろうし、足りなければ枯渇するのは目に見えているからだ。

気にならないほどパイが大きい、との論もあるがどんな莫大なダムであろうといつかは溢れるし、枯渇する。

だから集合意識的な整理に対しては懐疑的だ。

であるならば、魂はどうあって、どう移ろうのか? 正直納得したいが未だに出来ていない。

 

魂と死後の世界を信じる事は生きていく上では大切かも知れない。死を前にした時は特にそうだろう。

たがそういった事なしで生き、そして恐怖を抱きながら死ぬ、それもある種人間的で、愛おしく感じるところだ。

盆休み初日。

今日はほんと何もしていない感じだ。

 

朝起きて即朝風呂に入る。自動給湯してくれるが非常にありがたい。

その後、朝飯を食べに吉野家へ。朝定食を食した。吉野家松屋すき家とも近くにあるのは本当に助かる。

帰り道に残油量が若干心許なくなっていた為、給油に向かう。おまけに洗車と車内清掃。

また、スーパーにより野菜や肉、惣菜類を購入。

帰宅後すぐに洗濯をしつつ、風呂場を掃除。

昼食はスーパー惣菜のカツ丼。スーパーにより、カツ丼も特徴がある。

今日のカツ丼は白米の適度な粘りと和風の味付けがマッチしており美味だった。

昼食後はひたすらギター、ベースを弾きながらyoutube漁り。ベース関連の動画はやはりギターに比べると少ない。

基本的に動画コンテンツは時間の割に習得が遅くなるが、身体を動かすようなことについては参考になる。

夕食はソーセージ、卵焼き、サラダ。今日はやや食い過ぎだった。猛省。

夕食後はabema将棋トーナメントを見つつ、P5Sをプレイ、現在に至る。

 

マジでダラけきった一日だが、こういうので良いのだ、休日初日は特に。

来週は2日間出勤、4日間休日となる。

実家に帰るのはむしろ両親から拒否されたので、4日間を一人で過ごさざるを得ない。

夜の街に繰り出す事も能わずと言うならば、家で楽しまねばしょうがない。

 今から何か暇つぶしを見つけねば。

 

 

振り飛車党の棋風。

どうにも振り飛車党というのは特に染み付いた感覚というものが滲み出やすい気がする。いわゆる棋風といったやつだ。

勿論、明らかに有利不利に関わる部分については同じ指し方になるにしても、どちらを選んでも一局(まぁ勝負にはなる)の場合、個々の好みが反映される。

それはプロの先生でも同じ事のようだ。

 

捌き方からしても鈴木九段の豪快な捌き、久保九段の綺麗な捌き、藤井九段の繊細な捌きと特徴が現れている。

中終盤においても鈴木九段は実践的な指し方、久保九段は粘り強い指し方、藤井九段は重厚な指し方と三者三様の部分がある。

 

自分自身の棋風を考えてみると、アマチュアらしくややケレン味が強めだ。そういう意味では鈴木九段に近い部分がありそうだ。

ただ金銀の使い方は割と窪田七段に憧れて真似ているので、その辺りが割とちぐはぐ気味かも知れない。

どうであれ終盤を上達させるしかないのだが。

 

 

嵐は数えることをしないが、運命は一瞬の光でおまえたちを数える。

これは鮎川信夫の「戦友」からの一節。

高校の現文の授業で取り上げられて以来、非常に好きな戦後詩だ。

授業で習ってから著者も忘れていたが、文章に強烈なエネルギーを感じた事を覚えている。

最近になって調べて著者背景などをきっちりと知ると詩の意味合いも味わい深い。

 

最後の「ユダの接吻はいらない あばよ」は鮎川自身の「戦後社会」への決別を表しているのだろうが、そういった意味合いは勿論、この表現自体が好きだ。

メタファーとしてのユダは使い古されているところだが、あの余韻は何とも詩の奥深さを感じさせてくれる。

 

理想のメロデス論。

一番好きな音楽ジャンルはもう間違いなくメタルだ。

そこから更に細分化して何か好きかと言われると少し悩むところだ。

元々はスラッシュメタルが好きでメタルを聴き始めたが、最近で言えばブラックメタルが一押しだろう。ただネオクラも捨てがたいし、所謂古典的なメタルもやはり芸術的だ。

ただ一番と言われたらメロデスを選ぶだろう。

 

メロデス、正式にはメロディックデスメタルは名前の通りデスメタルから派生したジャンルだ。

元々デスメタルが暴虐性や邪悪さの表現として使われる事が多い。それ故に純然たるデスメタルにはあまりメロディがない。

低音リフと高速ドラミング、デスボイスによる音の暴力であり、少し聞き辛いきらいがある。

 

メロデスはそういったデスメタルに対して叙情的なメロディーが足された事で暴虐性、邪悪さだけに留まらない多彩な感覚を反映出来るジャンルだ。

個人的にメロデスを評価する上で求めるポイントは3つある。

 

 

一つ目。「過不足なくメロディアスなリフ」。

これはメタルに留まらないが、リフ=リフレイン≒モチーフの完成度は音楽の完成度に直結する。

モチーフさえ良ければひとまずは名曲となりうる。

ここからは好みの問題だが、メロデスの中には極端にメロディの強いリフも散見される。

特にチルボドのフォロワーなどに多く見られたが、あそこまでピロピロ弾いてしまうと最早デスボイスを使ったメロディックメタルでしかない。

デスメタルには暴虐性、負の感情の爆発が含まれる筈であり、それがない以上評価しづらい。

そういった意味で過不足ないメロディーが求められる。

この考え方はいささか原理主義者気味だろうが、譲れないところだ。

 

2つ目。「過不足ない叙情的なソロ」。

これも一つ目で述べた内容とほぼ同一。ただあくまでギターソロについて述べるならば、ここでいう過不足はソロの長さに重きが置かれる。

長過ぎるソロがメタルの特徴でもあるが、ある程度短く、上質なメロディーを乗せれるかが肝要と思う。その方が無駄がなく、それ故に美しい。

 

3つ目。「デスボイスで唄えているか」。

個人的にはデスボイスはただただリズムが安定して声量が出せればいいというものではなく、普通の歌唱以上にいかに歌うか、言い換えればいかに表現するか、が重視されるように思う。

デスボイスを出せる人は多いが、デスボイスで唄える人はそう多くない。

唄えてこそメロディでなく、曲全体にに叙情性が生まれる。

 

以上3つの観点は若干保守的かも知れない。

ただ、後期At the gates、初期arch enemyに魅せられた身としては、何故その2つのバンドの曲はこれほど良いのか?を突き詰めると上記のポイントが浮かんでしまう。

最早メタルを捨てたインフレイムスや劣化を重ねるチルドレンボトムを考えると、何より大切なのはいい意味で変化しない、安定した作品作りなのかも知れないが。

 

 

格闘技とプロレス。

元々K-1全盛期時代は格闘技が好きだった。とは言ってもテレビの特番や年末に見る程度だったが。

正直寝技アリだったPRIDEはあまり好きではなかった。試合が塩っぽくなりがちだったように感じていた。

そういったブームが崩壊したのち、暫く格闘技関連からは遠ざかっていた。

そして最近はRIZENが幅を利かせているが、アレはアレであまり好きではない。

話題性やストーリー作成等は存分に頑張っている事は認めつつも。

 

その中で辛うじて見ているのがプロレスだ。プロレスといっても新日本とWWEくらいなのだが。

 今はコロナ影響で格闘技イベントもなかなか難しいところにある。

とはいえ、いつか大歓声の中でのプロレスを見に行ってみたいところだ。