下書きのままだった(新年を迎えて)
そういえば下書きのままだった。
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今年も無事新年を迎える事が出来た。
とはいえ、例年正月は目を背けている諸問題に直面する期間でもある。
母親と父方親戚絡みのゴタゴタ、祖母の余命宣告、それに付随する半ば負動産と化すであろう実家の処理の問題と考えたくない事ばかり。
今年はある程度方針を話して母には納得して貰えたので幾分か気は楽になった。
自分自身のことを思うと今年からが勝負だと考えている。どのように身の振り方を考えるにしろ、まずは健康を取り戻さねばいけない。
このまま行くと数年以内に長期入院や突然死しても何ら不思議ではない健康状態だ。
どうせあと10年弱もすればおまけの人生だ、と生きてきたものの、苦しいのはやはり辛い。
頑張らねばならない。
変わる美学と変わらない美学
今まで安穏と生きてきた場所から動く時、それはいつであっても大変なものだ。
無意識のうちに訪れる変化もあるが、それを自覚的に、問題意識を持ち続けつつ、行う事の何としんどい事か。
だから、そういう人は尊敬出来る。自分が到底できない事、それに一抹の恐怖と多大な憧れを感じる。
ただ、無意識のうちに訪れる変化に抗い、そのままで居続けようとする事も、しんどいのだ。
そういう人も尊敬出来る。それに対しては一抹の憐れみと多大な憧れを感じる。
どちらを選ぶのが良いのか、それは個々人の美学次第だと思う。
変わる事はしなやかで、行動的ではあるが、ある種のずる賢さ、抜け目なさを感じる事がある。
変わらない事は、強く固く、叙情的ではあるが、ある種愚かで、感情論に振り回されがちだ。
どちらも酷く人間的で好きだし、そういうもの、ことを愛したい。
一つ言えるのは「凪」は駄目だということだ。
動こうとせず、留まろうともせず、流されるまま。
酸いも甘いも知る賢者ではあれば行き着くところかも知れないが、それは人生の主人公としての死と同意義だ。
俺はあと数年で漸く鎖が解ける。その頃には時すでに遅しかも知れないが、動くのか、動かないのか、今のうちに決めねばならない。
どちらの美学が自分に合うのか、よくよく考えなければならない。
結果が野垂れ死だろうが、孤独死だろうが、病死だろうが、なんだっていい、人生の主人公としてのバトンを上手く渡せさえすればそれでいい。
老兵は人知れず去るべきなのか、それとも死ぬまで戦うべきなのか。
最近よく悩む。
在りし日の思い出
また久々に夢を見た。それは在りし日の苦い思い出だった。
幼馴染というものは何かと特別なもので、どんな奴だろうがみんな幸せになって欲しい、そう思う。だが思うだけだ、そう思い知らされる。
彼女は大人に使われて、捨てられて、閉じこもって。
見て見ぬふりをして自分を慰めていたのか、それとも単に仲間外れが怖かったのか、またはどちらもなのか。
10数年連絡すら取っていなかったのに、夢で呪詛を吐いてくる。正直参ってしまう。
自分で自分を許さなきゃ仕方がない。だって許してくれる相手はもういない。
酒を飲んで音楽を聴こう。問題に靄が掛かったようになって、思考がゆっくりになる。
身体は風船のように膨らみ、破裂しそうになっているが、ぼやけた頭だけは萎んでいく。
こういう酒は暫くもういい。
一人で飲む時はおいわいととむらい、どちらかと決めている。
次は祝わせてくれ、どうか。
緩慢なる死。
どうにもこうにも人生面倒な事ばかりのようだ。ただやらねばならぬものもある。
やらなければいけない事だけをひたすらやると自分の思考がどんどん衰えていくのをひしひしと感じる。
正直、やりたい事もやるべき事も何もない。こうなると先にあるのは緩慢なる死のみだ。
分かっているから前に進もうとするが、どうにも閉塞感と無力感の狭間で立ち往生してしまう。
ただ最近はその閉塞感や無力感というのはまやかしだとも気付きはじめてもいる。
結局一度レールの上に乗っかってしまうと降りるのが怖くなるだけなのだ。例えレールの上を走っていたとしても、ふと周りを見回せば不自由ながらも自由な世界は見えるのだから。
それに自分の場合、そんな大層なレールに乗っている訳ではない。それに積んでいる荷物も大分少なくなってきた。
正直、大学を卒業してから自分は、可能性が、世界が閉じていく事に怯えを持っていた。
ただ閉じていく世界の中でも新たな世界への扉さえ見つける事が出来れば、きっとその先に可能性はあるのだと信じたい。エルドラドを見つけるようなものだとしても。
ゆめにっき。
四連休、昼飯を食って昼寝をする豚のような生活を送っていた。
そういえば今日昼寝した時夢を見た。久々に夢を見た気がする。ゆめにっきを付けてみようか、ふと思い以下に記してみる。
簡単に言えば、夢の中で親父と色々な場所に行っただけだ。
とはいえ、世界観は現実とファンタジーが混ざったような感じだった。
俺はまだ子供だったし、親父はまだ50歳半ばだったのではないだろうか。
実家の二間左の路地に木造の家が建っていて、その脇に入るとまるでサンドバッグのように吊りさがった丸太が何本も並んでいる。
丸太の下には「どこか」の行き先が書いてある。
大分、田中と言った県名、名前から、悲嘆、歓喜と言った感情、彼岸、夢、といった文字もあった。
その丸太に抱きつく事で様々な場所にワープする事が出来るのだと、親父は言う。
まず親父に連れられて大分に飛んだ、とは言ってもそこが大分だったかは怪しい。
交差点のど真ん中だけが真っ暗で、周りは夥しいネオンと車のライトで照らされていた。光が際立つのに、いやに影は暗かった。
暫く蒼然として交差点のど真ん中に一人佇んでいたが、ふと我に返り歩行者道路に向かった。
道には缶や瓶が無造作に落ちている。酒と小便の臭いが混じり、時折野良犬の鳴き声が聞こえる。
暫く歩くと煌々と光る百貨店のような建物が現れ、視界は暗転した。
ふと気付くとまた数本の丸太の前にいた。親父はいない。
今度は字もない真っ黒な丸太に抱きつく。
そして、、、
その後はもう思い出せない。
目覚めた後、少し散歩をして考えてみた。
親父が亡くなって、涙は一回も流さなかったが少なくとも普段見ない夢を見るくらいにはきてるんだなぁと。
悲しくはない、ただ心の中のもやもやは消えてない。それを後悔と呼ぶのか、はたまた追憶と呼ぶのか、今はまだよく分からない。
アライさんマンション。
けもフレの2次創作だがSCP的な怪異が登場する作品群。不気味さと不思議さが同居しており、どこかゆめにっきを彷彿とさせる部分もある。
割とハマってしまい、ちょくちょく確認をしている。
少ないながら示唆的な内容から様々な考察が生まれていく。架空の神話とも呼べるクトゥルフ神話にも通ず、皆の共通認識の元作り上げられていく世界だ。
そういった創作作品の魅力はある一定のルールの元、世界がドンドンと広がるところにある。
けもフレRPG作者の方がyoutubeでアライさんマンション3Dを公開しているが素晴らしい。
特に商店街。夕暮れ時のノスタルジックな景色が一瞬にして不気味な、得体の知れない場所になるのがいい。
これからの広がりに期待したい。